今日のおすすめ本。
2015年12月16日はこちらです。
『疑われざる者』
シャーロット・アームストロング著 衣更着信訳 ハヤカワ・ミステリ刊
四月のその日の朝は、晴ればれと、陽が照り、空気は、冷たく、
澄みきつていた。緑いろの眼をしたその若い女は、自分の船室で、
ドアの横に、なん度目かの最後に、姿をうつしてみた。この古い
トウィードのスーツだつて、ちつともみつともなくないと思った。
バーミュダの押し入れの中に、しまい忘れてあつたのが見つかつたのは、
まつたく運がよかつた。ホントは、黒い窟ではいけないのだけど、
まあ仕方がないだろう。帽子はなかつた。ターバンのように、頭に
まきつけていたスカーフも、ある日、デッキで、風に吹きとばされて
しまつた。金茶いろの髪は、至ごくアッサリとまとめてあつた。
きよらかに輝いていた。生れてはじめて、髪の手入れにお金を出すのは、
もつたいない気がしたので、自分で、テイネイに洗つたのだつた。
よくできたと思つた。手袋もない。この古ぼけた、茶と白の夏向きの
ハンドバッグがあるきりだ。それをとりあげた。
（中略）
ニッコリと笑つた。鏡の中の顔も、ニッコリと笑つた。そうだわ、
笑顔を忘れないようにしなければ。顔はすつかりやせてしまつた。
前よりも、骨ばっていた。笑顔のほうがよつぽどいい悲しそうな顔や、
疲れはてた顔をして見せたつて、なんにもならないだろう。実際、
悲しいことなど、少しもなかつた。
（中略）
一人の高級船員が、声をかけた。「みなさん、お待ちかねですよ」
「すみません」
淑女らしく。笑顔で。たのしげに。かわいらしく。出しやばらずに。
お作法の学課を思い出した。
みんなの—四、五人の男と、一人の女のあつまつている部屋に、
案内された。みんなの眼が、入つてきた若い女の顔を、なめまわした。
高級船員が、紹介した。「こちらが、ミス・マチルダ・フレィジァです」
（本文より）
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