思想の根源から

復活!!!

今日のおすすめ本。

2017年10月16日はこちらです。


『改訂新版 共同幻想論

吉本隆明著 角川文庫刊


 〈対なる幻想〉を〈共同なる幻想〉に同致できるような人物を、

血縁から疎外したとき〈家族〉は発生した。そしてこの疎外した人物は、

宗教的な権力を集団全体にふるう存在でもありえたし、集団のある局面だけで

ふるう存在でもありえた。それだから〈家族〉の本質はただ、それが

〈対なる幻想〉だということだけである。そこで父権が優位か母権が優位かは

どちらでもいいことなのだ。また〈対なる幻想〉はそれ自体の構造を

もっており、いちどその構造のうちにふみこんでゆけば、集団の共同的な

体制と独立しているといってよい。

(中略)

 わたしたちは〈人間〉としての人間という概念のなかでは、どんな差別も

個々の人間のあいだに想定すべきではない。つぎに〈性〉としての

人間という概念、いいかえれば男の女としての人間という概念のなかでは、

エンゲルスのいわゆる〈性〉的分業のこと以外には、現実の部族社会の

経済的な分業と、人間の存在とを直接むすびつけるどんな根拠も、

想定するわけにはいかないのだ。だからライツェンシュタインのように

狩猟や戦闘は男性の分担で、農耕は女性の分担であったというのは、

いつも反対の例を未開種族にみつけだせるような恣意的な理解でしかない。

たかだか数の問題としてもそういえるだけである。これにたいして

共同性としての人間、いいかえれば集団生活をいとなみ、社会組織をつくって

存在しているという人間という概念のなかでは、人間はいつも架空の存在、

いいかえれば共同幻想としての人間であり、どんな社会的な現実とも

直接むすびつかない幻想性としての人間でしかありえない。

 ここで農耕社会の起源の時期に、なぜ部族の共同幻想が、男女の

〈対〉幻想と同致したようにみえるかという疑問にふたたびかえろう。 

わたしたちはけっして、ライツェンシュタインやわが国の追蹤者たちみたいな

解釈をとりたくない。問題はまったく別のところにあると考える。

(「対幻想論」本文より)


こちらは初版本で角川文庫版は現在絶版となっております。

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