二月九日肉の日!
う〜ん、焼肉食べたい。
今日のおすすめ本。
2016年2月9日はこちらです。
『人間みな病気』
時計を見ると彼これ一時である。村役場の引けるのは三時か四時か知らぬが、
どうしても今日中に手続きを済まして置かなければ、検査を受ける訳に行かない。
折角友人に奔走して貰った親切を無にしなければならない。私はふと一策を
案じ出して近所の洋酒屋からスコッチ、ウイスキーのポケット入りの壜を購った。
そうして、ベンチへ凭れながら、其れをグビリ、グビリ飲み始めた。
酒の力で神経を一時麻痺させれば、大概の恐怖は取り除かれると云う事を、
私は此れ迄の自己の経験に依って、迷信的に信じて居た。一番ぐでん、ぐでんに
酔払った揚句、前後不覚になって電車へ乗り込んだら、どうにかした拍子に
気が紛れて大阪まで無事に行けるだろうと思ったのである。
不自然な、強制的なアルコールの酔が次第次第に肥え太った私の肉体へ
浸潤して来た。じッと大人しく腰掛けて居ながら、気違いじみた酩酊が立派に
魂を腐らせて行き、官能を痺れさせて行くのが、自分でよく判るように
感ぜられた。私はいつかとろんとしてきた。慵げな眼を見張って、賑かな、
明るい往来の、種々雑多な音響と光線の動揺を凝視して居た。
五条橋の袂を、西東から行き交う人々の顔が、みんな汗にうじゃじゃけて、
赤く火照って、飴細工の如く溶けて壊れだしそうに見えた。絽縮緬や、明石や、
いろいろの羅衣にいたわられて居る若い美しい女達のむくむくした肉が、
一様にやるせない熱さを訴えて、豚の体のようにふやけて居るのを見た。
汗・・・夥しい人間の汗が、蒸し蒸しした空気の中へ絶えず発散して其処辺
一面に漂い、到る所の壁だの板だのにべとべととこびり着いて居るらしかった。
—「街には汗の靄が立って居る。」—と、誰かが、デカダンの詩人が謳いそうだ。
・・・
(谷崎潤一郎作「恐怖」本文より)
こちらは初版本で現在絶版となっております。
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