今日のおすすめ本。
2016年8月31日はこちらです。
『食物漫遊記』
前にも言ったように、私は凝り性というより偏執狂に近い性格の持主である。
天どんが好物となると天どんばっかり、中華料理が好きとなると、横浜中華街を
一軒一軒しらみ潰しに渡りあるいたりする。久しくタクシーを敬遠していても、
一旦何かの拍子に車を使うと、歩いて三百メートルのところでも車を使わないと
気がすまない。
(中略)
ポルノ館を出て、まっさきに目についた蕎麦屋に入った。天どんを注文し、
天どんがきたところで、あらためてビールを頼んだ。天どんを出前が届くくらいの
間適度に冷ますためである。
パリパリの揚げ立てはいけない。家庭教師時代のように、出前が遅れて天ぷらが
すこしくたびれ、タレがしみすぎてくたんとなったのを前歯と舌の間に挟んで
にったり食いちぎる感触が、まずは復活しなければいけない。天下の天どん通が
何を言おうと、私の天どんリハビリテーションには、あのわびしくうらさびしい
出前物の正調がぜひとも欠かせないのだ。
ビールを一本半ほど干した頃合いを見計らって、丼の蓋を取る。蓋の裏側に
水蒸気の冷めて水玉になったのが、透明な魚卵のようにびっしりと貼りついている。
よろしい、あの頃のままだ。崩れそうにふやけた衣を箸でつまむと、ずるっと
むけてイカの白いネタがのぞく。構わずに口を寄せて前歯で食いちぎった。
拒否反応はない。揚げざましを使ったのか衣の表側が冷め、ネタも舌ざわりが
冷たいのに、ご飯にぬくもった裏側がほんのりと温かい。これが正調だ。
あの頃の通りだ。と思うままに色の濃い衣は難なく咽喉元を通っていた。
(「天どん物語」本文より)
天どん食べたい・・・。
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