水声

今日のおすすめ本。

2016年7月27日はこちらです。

『龍宮』

川上弘美著 文藝春秋

 夜の始まりのことを、話そうか。

 会社を出るとき、私はいつもふかぶかとお辞儀をする。ビルの壁面は濡れたような

夕闇におおわれ、輪郭が曖昧になっている。光を灯した窓は、空中に浮かんだ

四角い白紙のようだ。お辞儀をする私を、退社する人間が大きくよけてゆく。

人間たちは,会社を出てしまうと、二度とビルを振り返らない。もし今夜

死んでしまえば、明日は同じビルに来ることはないというのに、人間たちは

そそくさと出て、そそくさと帰るばかりだ。

 思うさまお辞儀をしてしまうと、私は夜の街に向かって歩きはじめる。

 夜はまだ浅い。夜の闇も淡い。

 私は一軒の居酒屋に入り、生ビールを注文する。注文を聞きに来た若い衆は、

私の毛深いからだに一瞬驚くが、表情は変えずに、生ビールの注文を通す。

つきだしの切り干し大根の小鉢もすぐに持ってくる。

 若い衆が驚くのは、最初だけだ。すぐに慣れて、私がつぎつぎに注文する

揚げ出しどうふだの、砂肝の塩焼きだの、ぶり大根だのを、てきぱきと持ってくる。

「このへんに、アレ、いますかね」と私が聞くのは、燗酒が二本目になったあたりだ。

「うちみたいな店には、アレ、来ませんよ」と若い衆は答える。

(本文より)


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