今日のおすすめ本。
2016年10月15日はこちらです。
『仮寝』
とりあえず荷物を置き、寝床に腰をかけてみると窓の外に有楽町の駅の
ホームに佇む寒そうな人の姿が在った。こちらを物珍し気に見る人の顔も
ホームの燈りのためにはっきりとし、狭いとは言えなまじのビジネスホテルの
個室よりも懇切に作られた部屋であったので、突然、人に覗き見をされたような
違和感で、レースのカーテンを綴じる知恵さえ咄嗟には出ず、手が動いた時には
品川を通過していた。
あのお喋りな社交家らしいご婦人の声に耳を傾けていたデッキでは東京を
離れるに相応に感傷があったにもかかわらず、個室に肝を冷やしたとたんに、
夜行列車という感傷さえも吹き飛んでしまった。大方の乗り物には乗り馴れた
つもりはでいたが、部屋の設備はどうあっても好奇心を引くもので、道具の方から
見てくれと迫まる感じがした。一通り設備がいかなる仕組みのものか調べないと、
気が落ち着くということもなさそうだと、苦笑混じりに、まず折り畳みの
洗面台を広げてみた。握りをひくと壁に収納された流しと蛇口が現れるのだが、
これが目の覚めるピンクのきれいな流しであった。
真夜中の寝覚めの心細さを募らせる足許の照明が無いかわりに。細かな文字の
書類を読むにも苦の無さそうな読書燈が枕許にあった。天井燈は光量の調整は
できないが、窓際の壁を飾るのにほど良い高さにまで傾け、横になり塩梅を
確かめて起き上がった。さすがに、小卓の下に組み込まれたテレビとステレオの
セットにまで手を出しかね、東京を離れると言うより、東京を小型にして運ぶ
列車を代弁するかのような黒い道具を陰気と言うよりは他に表現の仕方がない
無味乾燥な面持ちで見ていた。
車掌が扉を叩いた。
(「夜汽車」本文より)
こちらは初版本で現在絶版となっております。
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